
えーっとですね、これは19世紀末に実在したアメリカの興行師、P・T・パーナムの生涯を映画化したミュージカル映画です。
スコアは「ラ・ラ・ランド」と同じ作詞作曲コンビ。「ラ・ラ・ランド」以上に「熱い」曲を聞かせてくれる。
そして主演はヒュー・ジャックマン。その相棒に「ハイスクール・ミュージカル」のザック・エフロン。その他デンゼイヤだのキアラ・セトルだの、歌って踊れるヒトが大挙して出演してます。
つまり、ミュージカルとしての出来は「ラ・ラ・ランド」より全然上。
ちょっとだけ、往年のハリウッド映画のようなワクワク感が楽しめます。
で、ですね。
今ではすっかり映画大好き中年(初老説あり)がまだ映画大好き少年だった頃、一部マニアな映画好き(サブカル好きと言っても良いかもしれない)の間で密やかに語られる一本の映画があった。
その映画の名は「フリークス」。
トッド・ブラウニング監督作。
この映画の何がそんなにマニア受けしたのかというとですね、この映画、なんと、ホンモノの身体障碍者(英語でいうとフリークスね)が大挙して出演しているということなのよ。
要は見世物小屋のハナシなのである。
重度の身体障碍者ばかりを集めた見世物小屋。
現在ではとても許されない興行形態だが、当時は当たり前のようにあったらしい。
いや、現在では許されないどころか、当時でもこの映画は「不道徳」とされ、イギリスでは30年間上映禁止の憂き目にあったそうである。
さらに当時映画監督としての評価をある程度固めていたトッド・ブラウニングはコレ一発でキャリアが破綻してしまう。
それほどヤヴァい映画なのである。
それでもこの映画がカルト映画として評価されているのは、フリークスたちが自分たちを騙して命さえ奪おうとした「健常者」に、一致団結して「ある嵐の晩に」復讐を果たす、という勧善懲悪ストーリーであり、ある意味フリークスの「魂の解放」を謳い上げているからでもあるだろう。
一方ではシャム双生児の姉妹の片方にキスするともう一方が顔を赤らめる、など、極めて卑賤かつ不道徳な興味に訴えるための映画でもあるのだが。
そして、今、何より重要なのは、ですね、この「フリークス」、実はこの「グレイテストショーマン」の舞台となっている、P・T・バーナムのサーカスがモデルなのである。
その証拠に、「フリークス」に出ているフリークたちの殆どは、バーナムサーカスからの借り物だ。
つまり、ミュージカル映画「グレイテストショーマン」は、あの、おどろおどろしいカルト映画「フリークス」の上に成り立っているのだ。
そう考えると、「グレイテストショーマン」はなんか欺瞞に満ちているなぁ、という気もしている。
例えば「グレイテストショーマン」で言うところの「ショー」とは、ヒュー・ジャックマンを中心とした歌って踊るブロードウェイのレヴューのような内容だが、そんな訳はない。
実際はもっと静的な、おどろおどろしい、猟奇的で、不道徳なものだったはずだ。
挙句の果てに、ヒュー・ジャックマンがオペラ歌手の興行に同行する間、よそから引き抜いてきた演出家、ザック・エフロンがヒュー・ジャックマンの代わりにショーの中心で歌って踊りやがる。
演出家じゃなかったのかよっ!!
さらに言えば「障碍者を見世物にしよう」と言い出すのが、パーナムの無垢な娘に設定されている、というのも欺瞞の匂いがする。
「大人が障碍者を金儲けの道具にしようとしたんじゃないよ。無垢な少女の発想だよ」ということだろうか。
劇中、パーナムがサーカスを離れてオペラ歌手の興行で大成功を収めた際、上流階級のヒトビトを集めて大規模なパーティーが行われるが、フリークスたちも我が事のように喜んでパーティーに参加しようとするが、なんとパーナムによって拒否されてしまう。
このシーンはやはり全編の白眉だろう。
この後のフリークスたちの絶望と怒りは、このシーンに続くフリークスたちの怒りのパフォーマンスと曲の良さによってビンビン伝わってくる。
一瞬、この映画の欺瞞が、真実へと突き抜けそうだ。
しかしこのパフォーマンスもまた、パーナムの復権への伏線へと回収されてしまうのだが、、、
ワタクシ禁煙さんは、冒頭に書いたようにこの映画のミュージカルとしてのパフォーマンスと、伝記映画としての面白さを評価する。
しかし、この映画を純粋に楽しめたとしたら、この映画に潜む数々の欺瞞を、ご自分の中でどう対象化されているのか、よくわからない。
そして、ついでに言えば、この難しいテーマに敢えて挑戦した理由自体がよくわからない。
障碍者たちの魂の解放を、ヒュー・ジャックマンのミュージカルスターとしての実力を借りて表現しようとしたんだろうか。
ワタクシ禁煙さんにはどうにも対象化出来ない映画であった。
そして、自分の中でうまく対象化出来ないことと、面白い面白くないは、また別だったりするから、難しい、、、



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