
オープニングから数十分は、テレビのドキュメンタリー番組の体で始まる。
この構成はイキナリ巧いな、と思う。
3年前(つまり前作の公開から本作までと同じ時間)、20年ぶりに現実世界に生還を果たした本田望結ちゃんの「今」を、海外で賞を獲った敏腕ディレクターがドキュメンタリー番組にした、と言う設定。
コレ一発でこの3年間の本田望結ちゃんの孤独と苦悩、そしてせっかく生還したのにまた「きさらぎ駅」に戻らざるを得ない焦燥が理解できるようになっている。
望結ちゃんが「きさらぎ」界に消えてから現実世界では20年の月日が流れていた。望結ちゃんの生存を信じて探し続けていた母は流石に心労に負けて今は寝たきりで、望結ちゃんはバイトしながら母の介護をする日々であった。
一方で望結ちゃんは自らを犠牲にして望結ちゃんを現実世界に戻した(と望結ちゃんは思っている)恒松祐里を救うために、あろうことか市役所にきさらぎ界の調査の陳情に行き、泣いて土下座するその姿を盗撮されてネットに上げられ、「オカルト・クレーマー」と名前をつけられバッシングの嵐にさらされたりもしていた。
しかし、このドキュメンタリーはテレビ局上層部の判断でオクラ入りになってしまう。
申し開きをしようとするディレクターに望結ちゃんは決然と言い放つ。
「判りますよ。オカルト・クレーマーをテレビに出すわけにいかないってことですよね」
実はドキュメンタリーには、なんと現世に帰還していた前作の登場人物三人のその後だの、まだ10代の望結ちゃんがおっさんおばはんに囲まれる「20年ぶりの同窓会」の様子だの、「きさらぎ界」が実在する証拠となる映像も記録されているのだが、テレビ局のことなかれ主義によって「海外で賞を取った敏腕女性ディレクター」の抵抗も虚しくもみつぶされてしまうのであった。
そして、望結ちゃんは自ら恒松祐里を救うため、単身、再度「きさらぎ界」へと侵入するのであった、、、
きさらぎ界では三人脱出に成功していた分、あらたな三人が加わっていた。そして、望結ちゃんは当然未だ脱出できずにいる恒松祐里に事情を説明して味方につけ、残りの四人を説得して、「きさらぎ界」の究極の攻略に乗り出すのであった、、、と言うハナシ。
なにしろ2周目が二人いるので、サクサク攻略していたのだが、ココで一行は驚愕の事実に直面する。
なんと。前回と同じ手法ではヒトが減らない、つまり脱出できないのだ。
ココで、なんと望結ちゃんと、つまりは制作陣は、この魔界巡り全体がゲームのメタファーであることを認めてしまう。前回と同じ手法で攻略できない問題を「ファミコンとか」というワードを使って「一度クリアすると難易度が上がる」と説明してしまう。
コレは実は映画自体の世界観が、前作と今作で質的に大きく変わってしまったことを意味していまいか。
前作は、一度脱出に成功したヒトから攻略法を聞いていたため、二周目、あるいはチートのように「たまたま」見えるだけだ。
「この世には魔物の住む魔界が存在し、現世にはたまにそこへの入口が口を開けている」
コレはある意味自然現象である(超常現象だけど)。
この世にはコウモリだのヘビだのが住む洞窟が存在し、自然深い山の中にはたまにそこへの入口が口を開けている、と本質的には変わらない(超常現象だけど)。
出口が存在するのも、迷路のような洞窟の奥深く入り込んだら山の向こうへ抜ける穴が見つかった、というようなものである。
しかし、コレが「ゲームだった」ということになるとちょっとハナシが変わってくる。
ゲームである以上そこには「げえむ・ますたあ」的なものが存在することになってしまう。
少なくとも、今回は二周目以上の人間が参加しているかどうか、誰かが監視していて、参加していればモードを変更しているのだ。このためには、過去誰が魔界入りしたか何らかの方法で記録している必要すらある。
つまり、この魔界行自体が人為的(多分、ヒトじゃないけど)なものであることになってしまう。
神様だか魔王だか知らないが、なんらかの理由で「開催」しているのだ。
コレは、次作への伏線になりうるだろう。
次作はこの、「げえむ・ますたあ」と対決すれば良いのだ。
映画の最後で望結ちゃんの意外な企み(それはちょうど前作のサトエリの企みと対応している)が明らかになるが、もしかするとコレは次作での「対決」への伏線なのかもしれない。
望結ちゃんは自らの「企み」によって自分の軍団を作るつもりなのだ。
映画製作者としてゲームであることを認めてしまう脚本は、ヘタをすると映画が様々な他のエンターテイメントのサブジャンルに堕してしまったことを認める消極的な態度と捉えられかねないが、次作「対決編」への布石だとすれば、見事な仕掛けであると言いたい。
実をいうと、二周目の奴がいることによってルールが変わっていることに気づく前、一行がトライアル・アンド・エラーを繰り返すクダリがあって、一瞬退屈しかける。いつまでコレが続くのかな、と不安になるのだ。
しかし、コレこそがまさにゲームを攻略する楽しさ、というものだろう。
「え?コレでもダメなの?」
という絶望感と
「次はアレを試してみよう」
というワクワク感。
ゲームが原作の映画は山ほどあるが、ゲームのストーリーではなく、ゲームをプレイしている最中の楽しさを表現したというのはかなりの新機軸ではないか。しかもゲームが原作でもないのに!
まあ、厳密に言うと古くは「CUBE(古!)」とか「しんぼる」とかトライアル・アンド・エラー系の映画はあるのだが、決定的に違うのは一回死んでしまうところだろう。
死んですぐ生き返る。
まさにゲームのリスタートではないか。
そして、おそらくは前作公開の後、制作陣は「なんかゲームみたいだな、、、」という指摘を受けたのだろう(まあ、狙ってるんだけど)。だったらいっそゲームをプレイしているような映画にしたろかい、、、という開き直りが映画屋っぽくて素晴らしい。
それとも前作は一種の観測気球で、そこそこ評判が良かったので本格的にやりたいことをやりだしたのだろうか。
ワタクシ禁煙さんはこの映画が別に傑作だとかホラー映画史に残る名作だとか言う気はない。
しかし低予算映画に新機軸をいくつも盛り込んだ脚本と、その新機軸に答えた演出の映像センス(今回は特にドキュメンタリー絡みの処理がうまい)は、「プログラムピクチャーの水準作」あたりのハードルは越えていると思うのよ。
ところでこの映画、現実の前作公開から今作公開までの時間と、映画の中で経過した時間が一致している。
つまり、本田望結ちゃんは映画の中と同じくキッチリ三年分成長して、大人のオンナの魅力なんかそれなりに発揮しちゃったりなんかして素晴らしい。
演技力もこの三年間どこで修行していたのか、孤独と苦悩と焦燥等の他にも、恒松祐里の「弱さ」を認めて許す際のあっけらかんとした演技など、複雑な感情も表現できる「女優」になったんだなぁという感じ。
逆に三年間で全く変化していない(魔界にいたので変化がない)恒松祐里も流石。三年で太ったり痩せたり、はすっぱになっちゃったりもするだろうに、キッチリ三年前と同じビジュアルで戻ってきた努力には敬服する。
一方で、この映画の最大の弱点は「敏腕ディレクター」役に奥菜恵を持ってきたことだろう。
奥菜恵は劇場版「呪怨」の第一作の主演なので、ホラークイーン的なイメージで起用されたのかもしれないが「国際的に評価されている敏腕ディレクター」などという役は到底無理だった。
役柄の上で望結ちゃんとテレビ局上層部の板挟みになって悩むのだが、奥菜恵本人が難しい役にどうしていいかわからず思考停止に陥ってるようにしか見えない。
どうせ「呪怨」がらみのホラークイーンなら三輪ひとみさんでも連れてくれば敏腕女性ディレクターなんてお茶の子さいさい、ホラーファンも大喜びだったのに、、、
え?三輪ひとみさんで喜ぶのはオッサンだけ?あ、そう、、、


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