
当ブログでも何度か言及させていただいているが、「ジェット・コースター・ムービー」と呼ばれる映画がある。
当ブログで過去に扱ったことのある映画としては、ブラピの「ワールド・ウォーZ」とか。
「その女諜報員アレックス」とか。
「亜人」もそうかな。
「亜人」にはジェットースタームービーと言うより、「コンデンスト・ムービー」とか、今考えた新しい称号をあげたい気もするが。
要するに、豊富なアイデアを「スゴい」スピードで展開する映画、である。
「スゴい」というところがポイント。
なにしろジェットコースターだ。
そのスピード自体に恐怖を覚えるほどの怒涛の展開でなければ、こうは言わない。
そしてそのスピードをドライブする豊富なアイデア。
ただスピードが早くても同じ風景、同じカーブばかりでは映画もジェットコースターも飽きられてしまう。スピードを維持するにはそれに見合う量のアイデアが必要なのだ。
そして本作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、そのジェットコースタームービーぶりにおいて、その規模、大風呂敷ぶりを考慮すると映画史上に残ると言ってもいいのではないか。
一方でこの映画は、全くリアリティの無い設定、全く説得力の無い展開、全く納得行かない人間関係、全く嘘くさいキャラ、と信じられないくらい雑な脚本の上に成り立っている。
失礼ながらワタクシ禁煙さんは、今どきハリウッドのこんな大予算のビッグプロジェクトで、こんな雑な脚本が許されることがあるとは夢にも思わず、ビックリしてしてしまった。
これは一体全体どういうことなのだろう。
怪獣映画を喜んで観るような奴らはどうせアホなので、こんなもんで良いだろ、と思っているのだろうか。
だとしたらナメられたものである。
嘘くさい設定を嘘くさいまんま次から次へと繰り出しときゃ「スゲエ!スゲエ!」って喜ぶんだろ、ドーセ、ってなもんである。
しかし、このジェットコースターぶりと雑な脚本にある程度の時間晒されていると、ワタクシ禁煙さんに不思議な現象が起きてくるのであった、、、
あまりにも非現実的でバカバカしい展開の怒涛のような波状攻撃。
そして全体的に青を基調にした色彩設計の中に時に強烈なアクセントとして現れる赤。
これらの相乗効果により、なんだか
「ワタシが非現実的でバカバカしい映画を観ている」
というより
「非現実的な映画を見ているワタシ、という状況自体が非現実的」
という不思議な気持ちになっていく。
一体全体オレは何故こんな映画を観ているんだろう。
オレは非現実的なまでにムチャクチャな映画を見ているのではなく、このムチャクチャな映画を観ているオレ自身が非現実なのではないか、、、
イヤ、よく知りませんけど良くないおクスリをキメてトリップしちゃってる感じってこんな感じかな、と思う。
コレをもし最初から狙ってヤッてるとしたら、この映画はたいしたものである。
そしてもう一つ。
本作は我々怪獣映画のファンが怪獣映画を観るときのお楽しみのいくつかがスポイルされていることも指摘しておきたい。
例えば空間の演出である。
怪獣映画とは、つまるところ巨大な生物が出てくる映画である。
そして、巨大なモノを観客に「ああ、これくらいの大きさなのね、、、」と知らせることは簡単だが、「うわ!デカッ!!」と思わせることは意外に難しい。
例えば怪獣が高層ビルの中をのし歩いていれば、ビルとの比較で巨大さは伝わる。
しかし怪獣とはそもそも恐怖の対象である筈である。
理性で巨大さを理解するのではなく、その巨大さに対して観客が恐怖する演出が必要なのだ。これを実現するのが「空間の演出」である。
例えば、初代ゴジラで、民衆が小高い丘を超えて逃げようと走っていると、その丘の向こうからゴジラがヒョイッと顔を出す恐怖。
これは例えば一番最初の「スター・ウオーズ」である「エピソード4 新たなる希望」のオープニング、スター・デストロイヤーの下っ腹を延々ナメて行くとその下っ腹に何やらいろいろな構造物がくっついていて、それを延々見せらることで構造物との比較から「デ、デケェな、、、」と思わせるのも「空間の演出」だろう。
コレは実は出来ている演出家は意外に少ないのよ。
昔の、要するに怪獣映画全盛期の東宝は出来ていた。っていうか要するに円谷英二が出来ていたってことなのかな。
その後コレが出来ている、と思ったのは、どういうわけかアニメ界に多い。
「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明と「クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦」の原恵一である。
エヴァの第一話、戦略自衛隊のヘリ(今見るとオスプレイだなコレ)が山と山の間を飛んでいると、その山と山の間に使徒がズコッと入ってくるショック。
「温泉わくわく」で逃げ惑うひろし運転する野原家カーを映していると、そこにドコーン!と入ってくる巨大ロボットの足のデカさ。コレを観た瞬間、「ああ、やっぱり日本の映像関係の才能は実写映画よりアニメに集まって来るんだな、、、」と思ったものである。
残念ながらこういう「うわ!デカ!!」と思わせるような演出は全く観られなかった。
本作はケン・ワタナベの役名、オキシジェン・デストロイヤーの再登場、モスラに関連する双子の登場など、東宝怪獣映画へのオマージュに満ち満ちているが、肝心なところは学ばなかったようである。
もう一つ学ばなかったところ。
逃げ惑う民衆。
この映画には逃げ惑う民衆の描写がない。
厳密に言うとラドンが出現する島のシーンで若干あるのだが、「逃げ惑う民衆」のドラマを描いてはいない。
怪獣映画はつまりパニック映画でもあるので、怪獣に生命のみならず生活をも踏みにじられる民衆のドラマを挿入するのは怪獣映画の不文律である。
しかし本作はなんだか狭~い人間関係に終止して、視点を広げて怪獣に蹂躙される世界を描く、みたいな発送はコレまたなかったようである。
しかし、もしかするともしかすると、そんな、「空間の演出」だの「逃げ惑う民衆」だのヤッていると、トリップムービーとしての働きに支障をきたすから、敢えて避けているのかもしれない。
だとしたら、やっぱりスゴいな、、、(ま、無いけど)



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