「ヤクザと家族 The Family」 正しいタイトルは「ヤクザと人権」かな、、、

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 なんとなく、

「ヤクザ映画とはヤクザをカッコ良く描くものであり、過去、ヤクザの悲惨な末路を描いた映画など一本も無い」

と思っている若いヒトが作ったような映画。
 実際、もしこの世に「ヤクザの悲惨な末路」を描いた映画というものが存在しなかったら、本作は傑作と呼んでもいいかも知れない。
 しかし、当然のことながらそんなものはゴマンと作られてきたのである。
 もう、腐るほど作られてきたのである。

「新聞記者」の藤井道人監督作品。
 前回のレビューでワタクシ禁煙さんは「新聞記者」を演出に映画的興奮がないなどとほざいていたが、今回はストーリーラインからしてこの体たらくである。

 しかし意外なことに本作は、「新聞記者」に比べると映画的興奮に満ちたシーンが用意されていたりもする。

 例えば劇中最も動きの激しい「組長銃撃」などというシーンで、驚愕すべきワンシーン・ワンカットに挑戦している。  
 主人公(綾野剛)と組長(舘ひろし)と運転手、走行中のクルマのなかで3人で会話していると、バイクから横をすり抜けざまに銃撃される。慌てて止まったクルマから飛び出してチャカを持ってバイクを追う綾野剛。さらにクルマを振り返ると、、、
 ココまでワンカットである。
 これはもう、日本映画としては相米慎二以来といってもいいのではないか。
 クルマの中で楽しそうに昔話に興じる3人の様子から一転銃撃の衝撃、さらにシーン終わりの寂寞感まで、このシーンのドキドキする緊張感をワンカットで描き切った度胸は素晴らしいと思う。

 さらにこの映画にはもう一つ、不思議な、というか、え?マジ?と言いたくなるような映像的な仕掛けがある。
 しかしそこを語る前にこの映画のストーリーラインについてもう少し説明しておく必要があるだろう。

 実はこの映画で起こる出来事は、全て綾野剛演じる主人公のバカに起因している。
 冒頭のシャブ強奪事件から、途中の組長襲撃事件の元になった暴力事件、さらには別れたオンナのところへ、「関わっちゃイケナイ」と解っていながら現れてしまうまで、もう、このにーちゃんの行動はことごとくバカ丸出しである。
 途中の暴力事件など、「ヤクザの意地」を表現しているのだろうが、この時の暴行相手、敵対する組の幹部、駿河太郎の言い分をよく訊いて自分の組の幹部たちとよく揉んでいれば、その後の組の衰退をある程度防げたのではないか。

 すべてがこの調子で、ヤレ極道だ男を磨くだと言いながら、その行動は単なる身勝手と我慢不足と短慮に支配されている。

 で、何だこのバカは、、、脚本家や監督はコイツがいっぱしのヤクザというよりは、単なるバカな乱暴モノに過ぎないことに気づいているのだろうか、、、と思ってみていると、ああ、やっぱりバカであることに気づいていはいるのだな、、、と思わせる描写が出てくる。

 殺人罪で15年くらいこんだ綾野剛が出所してきた後のショボクレた風貌が、なんと、天才バカボンのパパそっくりなのである。
 もう、偶然とは思えない。
 完全に寄せて来てる。
「ということは、ひょっとしたら収監される前は天才バカボンに似ているのかな、、、(ほっぺにグルグルがあるとか)」
と思って確認してしまったほど。

 こんな映像ショックがあるだろうか。
 おそらくはほとんど金のかかってないフツーのメイクで大した映像ショックを仕掛けてきたな、と思うのである(ホントかよ~~、、、今回ハナシ半分で聞いてくださいね)。

 そして、映画は結局綾野剛をバカさ加減を肯定するような、毎度おなじみ、旧態依然とした「ヤクザ映画」として終わっていくのだが、、、

 もし本作にヤクザ映画としても新味があるとしたら、

「暴対法以後のヤクザのあり方」

 に焦点を当てている、ということだろう。
 
 出所した綾野剛は一度は組に戻るものの、カタギになることを決意する。
 そして先にカタギになっていたかつての弟分、市原隼人から、「5年ルール」の存在を知らされる。
 5年ルールとは暴力団から脱退しても5年間は「暴力団関係者とみなされ、組員同様に銀行口座を開設すること、自分の名義で家を借りることができない。」というものである、コレはつまり携帯電話も本人名義では契約できない、ということであって、これからヤクザになろうかな、と思うアホにとってはある程度のブレーキにはなるだろう。。

 しかしおそらくこのルールは、これからヤクザになろうという奴らへの心理的障壁というよりは、偽装脱退の防止にあるのだろう。現役暴力団員への規制は、かなり厳しいものでも社会的な合意が得られるだろう。そこで一時的に脱退したフリをして組のために様々な手続きをこなし、また組に戻る、あるいはそのまま組の「手続き係」として名義上脱退状態を保つ、という行為が横行することは予想できる。

 「5年ルール」がこの偽装脱退を防ぐためのものであることは理解できる。
 しかし、同時にこれから組を抜け、カタギに戻ろう、と思う人間にはとてつもなく高いハードルになってしまう。つまり、足を洗おうとするヤクザが減る。
 その意味で問題のあるルールであることは事実だろう。

 本作のテーマはやはりここだろう。
 そしてこのテーマを端的に表す言葉が終盤刑事役の岩松了から発せられる。

「ヤクザの人権なんてとっくに無くなってんだよ!」

 コレは、人権をめぐる映画なのである。

 人権とは厳しい概念である。
 それは、「人」権である以上、人間である、というだけで誰でもひとしなみに持つ権利である。したがって、もし人権というものを認めるという立場であるとするなら、文字通り、DNA的に人間でありさえすれば、連続殺人鬼だろうが売国奴だろうが強姦魔だろうが保証しなければならないのである。
 ワタクシ禁煙さんは以前、とある憲法学者が連続殺人鬼に対して「とりあえず人権停止!」と叫んでいたのを聞いたことがあるし、とある政党党首は外国人には人権がないと思っていると思われる発言をしていたが、人権とは、そんな都合のいいものではない筈である。
 ということは、当然、ヤクザにも元ヤクザにも人権は保証されなければならないのである。

 この映画は当然「元ヤクザでも人権は保証されなければならない」ことを表現したかったのだろう。つまり、今、ヤクザや元ヤクザの人権は守られているのか、と。

 おそらく、作中でヤクザや元ヤクザ自身で「ヤクザ(元ヤクザ)にだって人権はある」と主張していたら、この映画はそっぽを向かれていただろう。
 ワタクシ禁煙さんもそこからこの映画に対するスタンスを替えていただろう。

 もちろんヤクザの人権も守られるべきではあるが、「道を極める」といって背中にもんモンを入れ、一般の世界に背を向けたヤクザが一般社会の権利に守ってもらおうとするのは、やはり違う気がする。

 この映画はやはりそのへんを逃げているな、という気がする。
 自ら一般社会に背を向け他者たちをめぐる人権という重く鋭いテーマを、家族というファクターをぶつけて曖昧にしている。
 そりゃ、家族持ち出されたらかなわないよなー、、、みたいな。

 藤井監督には一度、ナニかのテーマと徹底的に向き合ってほしいな、と思う。

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