
すでに旧聞の部類になってしまったが、渡哲也が亡くなった。
正直言ってワタクシ禁煙さんの世代では、渡哲也といえば「大都会」シリーズと「西部警察」でほぼ同じ役、スポーツ刈りにレイバンのサングラスでやたらスゴんでるオッサンのイメージが強かった。
そんなある日、渡哲也が「浮浪雲」を演るという。
「浮浪雲」を読んでいたワタクシ禁煙さんは
「えー、、、イメージとちゃうんちゃう、、、あの飄々とした浮浪雲をゴリゴリの渡哲也がぁ~~~?」
と思ったのである。
しかし、ドラマ版浮浪雲の脚本家、倉本聰先生は、渡哲也にオファーした理由を
「渡哲也は都会人の屈折を表現できる役者だから」
とおっしゃっていた。
当時のワタクシ禁煙さんはこの理由が全く理解できなかった。都会人も屈折も城西署の黒岩には全く感じられなかったのだ。
しかし、いざ「浮浪雲」を観てみると、なるほどさすが倉本先生は正しいと思わざるを得ない。
後に再ドラマ化された、本当の都会人で屈折を売りにしていたたけし版の「浮浪雲」より、よほど「屈折の果ての飄々」を表現できていた。
そして、本作「紅の流れ星」こそが、日活アクション時代に残した渡哲也の「都会人の屈折」を表現することに最も成功した傑作なのであーる!
で、日活アクションですよ。
「ギターを持った渡り鳥」の時にも書いたが、日活アクション映画といえば「無国籍」である。
「コレ、一体どこの国の話なの?」
というハナシだ。
なんかみんな当たり前のように拳銃持ってるし。
あー、西部劇フォーマットだな~と思うと登場人物が馬乗ってるし。
しかし、アキラ映画数本や、本作を観ると、コレは「無国籍」などという表現で済むレベルではない。
そもそも普通の映画のように「リアル」に立脚する意思がない。
日活アクション映画の何割かは、国籍どころか現実さえ無視する一種の理想郷、ユートピアに立脚して作られている。
本作が制作されたのは1967年。
終わりの見えない公害問題、荒れ狂う学生運動と70年代に向けて高度成長に翳りが見え始めていた頃である(その後80年代に復活するが)。
しかし、一部のアキラ映画、そしてこの映画にもそのような日本社会を覆い始めた翳りは微塵も出てこない。
決しておとぎ話のような楽しい事ばかりの世界ではない。
ヤクザもいれば悪人もいる。
そこにはギリギリ現実世界と地続きであると思い込める程度の、しかし現実とは明らかに一線を画す世界で、リアリティの無いキャラクターがリアリティの無いストーリーを繰り広げているのであった、、、
冒頭、渡哲也演じるゴローは白昼堂々オープンカーを盗み、なんと高速道路上(首都高銀座線に見える)で隣の車線を走る敵対する組織の親分の狙撃をやってのける。
そのまま高速上を「コロがし」ながら吹くゴローの口笛が、先程から流れていた映画のテーマとシンクロする演出でゾクゾクと嬉しくなる。
舛田利雄のセンスには既に「完全な遊戯」や「やくざの詩」でシビレまくっていたが、相変わらずキレまくり。
やっぱりこのヒトの才能はスゴい。
そもそもこの映画は、
「望郷」(1937年のフランス映画)
↓
「赤い波止場」(1958年、裕次郎主演、舛田利雄監督)
↓
「紅の流れ星」
という流れで作られている。
つまり舛田利雄にとってはセルフリメイクなのだ。
そしてセルフリメイクあたって、渡哲也ならこの虚構性に耐えられると見抜いた眼力はやはり鋭いとしか言いようがない。
アキラ映画でもそうだが、日活アクション映画の虚構性は、役者に依存している。
虚構性の強い世界に観客を引き込み、嘘くささを忘れさせられるのは役者の魅力であり、とりあえずコレが可能なのは小林旭である。
そして舛田利雄は渡哲也にも(小林旭ほどではないにしても)コレが可能であると踏んだのだろう。
高速道路で狙撃をしたあと、ニヤニヤ笑いながら口笛を吹く渡哲也。
ヤクザのヒットマンのくせに、キザでやや哲学的とも言える長台詞を吐き続ける渡哲也。
おそらくは裕次郎では出せない「屈折」がこの映画の虚構性を支えている。
そして渡哲也が身をかわすために潜伏している神戸のクラブ(ダンスホール?ゴーゴー喫茶?)で突如奥村チヨが「北国の青い空」を歌って踊るシュールさ(なぜ神戸で北国?)。さらにその奥村チヨの彼氏にして渡哲也の子分、杉良太郎(!)が奥村チヨとデュエットまでする。この頃から杉良太郎は歌のうまい俳優として認知されていたんだな、と分かるが、この、ゴーゴーに合っているの合っていないのかよく分からない、演歌だなんだか分からない歌を強引に歌いデュエットまでしてしまう訳の分からなさが、当時の若者にどう受け取られていたのか、よくわからないといえば分からない。
このゴーゴークラブは不思議なことが多々起こる魔空間である。
渡哲也演じるゴローは匿ってくれている組の幹部に紹介された尊大な宝石商を殴ってしまう。
クラブ中が怯えて白けた雰囲気の中、店内には「ジェンカ」がかかる。
すると、ゴローはリズムに合ってるんだか合ってないんだかビッミョーな雰囲気で歩き出し、店内を行ったり来たりする。
すると、店内のゴローの恋人(松尾嘉代)や奥村チヨ、杉良太郎を含む店内の全員が何故かそのヨチヨチ歩きを「ジェンカ」を踊っていると認識して、大喜びで皆でつながって例のジェンカダンスを踊り始めるのである。
何だコレは、と思う。
ゴローのヨチヨチ歩きは断じてダンスとかステップとか言うシロモノではない。にもかかわらず、周りのみんなは大喜び、ニッコニコ笑って楽しそうにジェンカを踊る。
おそらく、舛田利雄監督はココで渡哲也にちゃんと踊ってほしかったのではないか。
しかし踊りの苦手な渡哲也が
「イヤ、自分踊りはムリっす、、、カンベンしてください、、、」
などとゴネたためにこんな不思議な演出になってしまってのではないか。
しかし、この苦境も渡哲也は、あの、口元を歪ませる照れ笑いでなんとか乗り切ってしまう。
恐るべし、渡哲也。
しかし渡哲也は裕次郎やアキラ、そしてトニーの後塵を拝する日活アクション末期のスターであった。
そのことがよく分かるのはヒロイン浅丘ルリ子の容姿の変化である。
本作でのルリ子は既に「妖艶」の域に入っており、初期の裕次郎やアキラ映画で見せたこの世のものとも思えない、まさに妖精の実在を信じざるを得なくなるような清純な魅力はもう無い。
このリアリティのない会話劇を成立させた演技力は流石だが、あの、小鳥のようなルリ子を期待してしまう、、、
その分、ゴローの情婦にしてゴーゴークラブのオーナー?(ただのママ?)松尾嘉代がイイ女なんだけどね、、、
確かに。
ゴローから粗暴さと退屈に対するいらだちを抜けば浮浪雲になるような気がする。本作のストーリー上のテーマは神戸に流された殺し屋の東京に対する望郷の念からくる苛立ちであり、神戸の街に対する退屈である。そして浮浪雲とは、全ての苛立ちと退屈であることを受け入れた果てにやってくる境地であろう。
「紅の流れ星」1967年。
「浮浪雲」1978年。
退屈を受け入れるまでに11年。
随分時間がかかったというべきか、それとも単にお江戸に帰れたからなのかな、、、



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