
コレはある意味とても特殊な映画だ。
どれくらい特殊かというと、あまりの特殊さに、当時の配給会社は訳が分からず、思わずオカルト風のタイトルを付けてしまったというくらい特殊なのである。
前にも書いたが、この映画と「サイコ」と「羊たちの沈黙」は同じ事件を元にしている。
そして「サイコ」や「羊たちの沈黙」をオカルトだと思うやつはいないだろう。
しかしこの映画だけは公開当初オカルト扱いされていたのだ。
当然、「サイコ」はこの映画より何年も(14年前です)の映画だが、オカルト扱いされない。
「サイコ」には殺人者の行動に対する解説があるからだ。
そして「悪魔のいけにえ」には解説は一切ない。
「羊たちの沈黙」の時点ではすでに日本でも「快楽殺人」だの「シリアルキラー」だのという概念が知られてきていて、ある程度解説なしでも通用するが(それでも軽い解説はある)、この映画の公開当時(1974年)はアメリカでもコレほど解説なしの狂気はショッキングだったのだ。いわんや日本においておや。
そう言えば、トマス・ハリスはとうとうレクター博士まで「なにゆえワタシは殺人者になりしか」を解説しちゃったねぇ、、、
いよいよ「悪魔のいけにえ」の解説のなさは偉大だねぇ、、、
原題を直訳すると「テキサス・チェーンソー虐殺」、となってヒネリもなんにもないわけだが、このヒネリのなさがまさにこの映画の本質なのだ。
政治的背景も、宗教的背景もない。恨みすらない。ほとんど性的興奮もない。
ただ、純粋な「虐殺」のみがポコンと提出される。
この純粋な虐殺に巻き込まれるほどの不条理があるだろうか。
今現在我々が「悪魔のいけにえ」を観て感じるのは、恐怖よりもこの圧倒的な不条理感だろう。
ココには映画史上最大の不条理があるのよ。。
だからこの画像の汚い、半分シロートの作ったような映画が芸術作品としてニューヨーク近代美術館に永久保存されているのだ。
監督トビー・フーパーの実質的デビュー作だが、予算4,000万円、16mm撮影の、まあ、ほぼ自主映画である。
そしてその予算的技術的な「粗さ」が、奇跡的にいい方に作用しているという意味でも特殊な映画でもある。
圧倒的な不条理に巻き込まれた人間を、丁寧に見つめるのはオカしい、ということだろう(充分に丁寧であれば、観客は丁寧であることにすら気づかないが)。
その証拠にある程度金もスターも使えてるようになってから作った「悪魔のいけにえ2」は格段に丁寧な作りになっていたが、正直、目も当てられない出来だった。
この意味では6年後の「死霊のはらわた」にも似ている。
いや、「死霊のはらわた」はそれこそ「オカルト版悪魔のいけにえ」なのかもしれない。
しかし、後輩サム・ライミがその後大いなる成功を収めたのに比べると、トビー・フーパーは結局自身のデビュー作を超えられなかったようでもある。
もちろん「ポルターガイスト」だの「スペース・バンパイア」だのと言ったビッグ・プロジェクトを任されているが、どれも「あの『悪魔のいけにえ』の」トビー・フーパーという期待に応えるものではなく(「ポルターガイストなんでどう考えてもスピルバーグが演出してて、トビー・フーパーなんて単なる名前貸しにしか思えない)、その後B級の世界に落ちてしまったようである。
確かに今、ラストでチェーンソー持って狂いまくるレザーフェイスなど観ると(この時レザーフェイスは自分のチェーンソーで片足半分ちょん切れてるはずなんだけどねぇ、、、)、この不条理感を自分で超えるのは無理なのかもしれないな、、、などと思う。
それくらい特殊な映画なのである。
ところでキャトルトラックの黒くて丸い運ちゃんはどうなったんだろうねぇ、、、



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