アーいや!イヤだイヤだ!こういう映画キライ!
なんなのこのラスト!!
なんでこういうもったいぶった思わせぶりなことするの?!
それでなんか自分が知的な人間にでも思われると思ってるの?
とは言うものの、実を言うとワタクシ禁煙さんは、この映画のほとんどラスト直前まで、
「ああ、オレは今傑作を観ているのではないか、、、」
という感動に浸りながら観ていたのである。
映画はほとんど寓話的と言っていいほどベタな不幸描写から始まる。
主人公のアーサー・フレックは、貧乏で、病気持ちで、病気の母持ち。
一応仕事にやりがいは感じているが、稼ぎは少なく病気のせいでクビになりそう。
スタンダップコメディアンを目指していると口では言っているが、ほとんどモノになってない。
なんだか「シンデレラ」とか「マッチ売りの少女」かと思うような不幸の連続。
そして、特筆すべきは、映画が始まった時点では後のジョーカーことアーサー・フレックは善人なのだ。
悪ガキたちにボコボコにされても文句も言わずにヤラレっぱなし。
障碍のある同僚にもやさしい。
母の面倒もかいがいしく看ている。
まさに童話だ。
ストーリーが寓話的であるだけでなく、この映画は映像が夢のように美しい。
美しいものはひとつも映っていないのに美しい。
くすんでいて、それでいて強烈な色彩をで溢れている色彩設計や、カメラの動きや、光が美しい。
まるで、子供の頃、西洋のどぎつい童話を読んでいたときに脳裏に浮かんでいた映像を再現されたかのようだ。

散々ひどい目にあってついに追い詰められたアーサー・フレックがつい凶行に及んだあと、トンネルを逃げるアーサーの影がトンネルに大きく映るショット。あまりの美しさにそのまま気が狂うかと思う。
おそらくは、戦前のヨーロッパのモノクロ犯罪映画がヒントになっているイメージ。
その直後、トイレに隠れたアーサーは、自分が「覚醒」したことに気づく。
映画の中でアーサーはジョーカーになるために何度か「覚醒」しなければならないが、この最初の「覚醒」のシーンは全編の白眉と言ってもいいのではないか。
自らの凶行に怯え逃げ出したものの、トイレに隠れてヒト心地つくと、自分がとてつもない開放感に包まれていることに気づく。
このシーンはホアキン・フェニックスの謎のダンスと不思議なカメラワークがあいまって、人間が心理的に開放されるシーンをこれ以上描ききった映画を知らない。
この後もホアキン・フェニックスの不思議なダンス・パフォーマンスは、アーサーの覚醒度合いが進むにつれて繰り返され、この破格の俳優の不思議な才能を堪能できる。
そしてラストのカタストロフに向けて、アーサーは覚醒を繰り返し、ジョーカーへと成長していくのだが、、、
実を言うと、映画好きの間に、なんかっつーと一本の映画のすべてが「夢だった」「妄想だった」と主張したがるヒトがいることは知っている。
ワタクシ禁煙さんの大学の先輩(実を言うと映画を作るサークルだった)にも、「タクシー・ドライバー」だろうが「殺しのドレス」だろうが
「あー、アレは全部夢なんだよ、ユメユメ!!」
と主張するヒトがいた。
あの先輩はこの映画を観て溜飲を下げているだろう。
しかし実際にコレをやると非難轟々になること必定だろう、特に長編映画では。
短編映画では「アウルクリーク橋の出来事」という名作があるが(イヤ観てはいないが)、長編で思いつくのはユマ・サーマンが選択する映画とシュワちゃんの目玉が飛び出す映画くらいか。しかしコレもユマ・サーマンの選択肢のうち一つは妄想じゃないし、シュワちゃんはちゃんと最初に「これから夢を見ます」と宣言して夢を見始めるので、フェアといえばフェアであり、ことほどさように「夢オチ」は嫌われるし成立させるのには工夫が必要なのだ。
しかも悪いことに監督のトッド・フィリップスはあからさまに
「さあ、どうかな?今までのは妄想だったのかな?それとも現実だったのかな?
フフフ、それはキミ達自身で決めてくれ、、、」
という態度を見せてくる。それまでの全てが妄想なのか現実なのか、どっちとも解釈できるようにもしてあるのだ。
ウルサいっちゅうねん。
オマエが一番おもしろいと思うのをさんざん選んだ末にお出ししろっちゅうんねん。
金払った客に選ばせるなっちゅうねん。
クヤシイので試みに「妄想説」を否定して、「全ては現実説」が可能か検証してみたい。
1.ラストの精神病院のシーンで緑に染めたはずのジョーカーの髪が黒くなっている件。
コレはカンタンに反証できる。
染めたと言ってもなんか緑の液体アタマから浴びただけではないか。あんなもん一回髪洗ったら落ちそう。仮に洗っただけでは落ちない染料だったとしても、時間経過がわからない以上、一回生え替わった可能性すらある。
2.ジョーカーが見ていない筈のウェイン夫妻殺害現場で、残されたブルース少年が佇んでいる場面を回想している。
コレもカンタン。
ジョーカー自身が手を下さなくても、逮捕後、刑務所内でにっくきウェインが死んだこと、そして殺された状況も(ブルース少年が生き残ったことも含めて)知らされていて不思議はない。当然、その場面を思い浮かべることもあるだろう。
実はコレは「全ては現実説」の傍証にもなる。
回想シーンの後、ジョーカーは笑って、「何がおかしいの?」と聞かれると、「ジョークを思いついた」と答える。「妄想説」ではこのジョークはこの映画の個々までの全て、ということになるが、別の解釈もありうる。
ラストシーン、刑務所の中で精神科医と会話するジョーカーの頭に浮かぶのは、両親を殺されただ独り路地にたたずむブルース少年の姿ワンカットだけである。
つまり、ジョークとは、ブルース少年に関することなのではないか。
「あのガキンチョがよー、将来コウモリのカッコなんかしちゃって、正義の味方ぶっちゃったりして、、、いやコウモリのコスプレて、、、」
ということではないか。この解釈でなければ、なぜ全編の中で回想があのカットだけなのか説明がつかない。
反証をもうひとつ。
実は本編の中に、自分の幸せな妄想に気づく展開がある。アーサー自身が「あ、アレはオレの妄想だったんだ、、、」と気付き、気落ちする。
全編が妄想だったとすると、この展開は、「妄想の中で幸せな妄想をして、幸せな妄想だったことにに気づいて気落ちする」ということなってしまう。そんなメンド臭いこと妄想するだろうか。そこは幸せなままでいいではないか。どうせ妄想なんだから。
というわけで、全編が妄想であった材料も、妄想ではなかったと判断できる材料も散りばめているのだ。
じゃあいいや、オレは全部現実だった説にのっとって鑑賞する!というハナシではない。
もう観終わっちゃってるし。
いつかワタクシ禁煙さんにも、こういうオチを着けたがるヒトの気持ちがわかるだろうか。



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