
多分、原作、脚本、(出来上がった)映画の間で、リアリティのレベルが全然合ってないんだと思う。
小説と映画のリアリティのレベルはもともと違う。
通常、ここに存在するレベルの差を埋める(気にならなくする)のは、演出、つまりは監督のマジックであるはずだが、今回は監督のマジックが逆効果に働いているようである。
要は、田舎(三重県らしい)の怪異を東京に連れてきちゃうハナシ。
但し、物語の語り手は連れてきちゃった奴(妻夫木聡)、連れてきちゃった奴の奥さん(黒木華)、連れてきちゃった奴の知り合い(青木崇高)の知り合い(岡田准一)、と移り変わって行く。
最終的に連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女(小松菜奈)、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉(松たか子)、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉の仲間(柴田理恵)だのなんだの巻き込んでの大騒ぎ、連れてきちゃった奴の子供を守らなきゃ、、、となる。
連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉、松たか子は実は警察をアゴで使うほどこの国の権力者に近い霊能者であり、連れてきちゃった奴のマンションでお祓いをするに当たり、周辺の道路を封鎖するわ、マンションの向かいの公園を接収して神楽殿は作るわ護摩壇は作るわ、大騒ぎの準備を始めてしまう。
連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉の仲間、柴田理恵によれば
「琴子ちゃん(松たか子の事ね)は使えるものは何でも使うの」
とのことだが、神道だろうが仏教だろうが沖縄のユタだろうが力の有る知り合いは関係なく呼び寄せているのだ。
実を言うと、この、公園に大勢集まってきて大仰な準備を始めるシーンは面白い。
なんかワクワクする。
公園の中で女子高生が数人でキャピキャピして写メ撮ってたりするので、
「なんでコイツラ追い出されねーの?」
と思っていると実は巫女舞の巫女さんだったりする。
しかし、ここでちょっとモヤモヤもする。
なぜ、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉がこんな大仰な騒ぎが必要だと判断したのか、よく解らないのだ。
もちろん彼女は日本最高の霊能者なので、霊能力を使ってブッキーが三重の山奥から連れてきた怪異の実力を察知したのかもしれない。
しかし、観客には何を持ってそう判断できるのか解らない。
このモヤモヤとワクワクの間の谷に、観客のリアリティは落ち込んでしまう。
実を言うと前半(3分の2?)は、ワリと丁寧な人間描写が続く。
特に語り手が連れてきちゃった奴の嫁に移るパートは黒木華の巧さもあって、文学的なリアリティがあり、2時間30分の中でもっとも普通の映画として観れるパートだろう。
しかしこの後のパートのリアリティは文学的なものから中島哲也監督特有の映像派のリアリティに移ってしまい、観てるものは呆然とするばかりである。
特に、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉(まあ、クドい様だけど松たか子ね)の造形のリアリティの無さは有る意味すごい。
そのリアリティの無さもまた中島哲也監督の映像センスなのだが、前半の、「イクメンぶってるだけで頼りにならない夫にウンザリする妻」の描写がリアリティが有るだけに接合しないのだ。
さらに、劇中「アレ」とのみ呼ばれる怪異について語られないのも観客が置いてきぼりになってしまう理由になっている。
冒頭からブッキーの小学生時代に友達だった女の子が「アレ」に連れて行かれてしまう描写がある。
そしてブッキーが成長したとき、地元の人達はその女の子がなぜ行方不明になったのかを知らない。
別に地元で有名な現象ではないのだ。
そんなマイナーな怪異がなにゆえ突然東京までブッキーを追いかけてきて大殺戮を繰り広げるのか、わからない。なんなのコイツ。
別に正体がわからなくてもいいのよ。
ただ、性質というかあ る程度の行動原理、また強力さくらい分からないと、どう怖がって良いのか分からない。
オリジナルビデオ版「呪怨」の怖さはあの、見境無さだと書いたことが合ったが、アレですら一応「家に入った奴」という縛りはあった。だから観てる方も「ああ!!その家に入っちゃダメ!!」なんつってハラハラ出来たのね。
最初は(20数年前?)三重の田舎の山の中で小学生の女の子を「連れて行く」くらいだったのに、何を契機に都会の真ん中でタクシーひっくり返して乗客全員殺すような凶悪なキャラに成長するのか。
この調子だとあの辺に住んでるヒトたちは次から次へと死んでしまうのではないか。
なぜなら、女の子が「連れて行かれる」とき、
「あなたもそのうち連れて行かれるよ。だって嘘つきだから、、、」
と言っているのだ。
私見によればこの世の中の人間の99.8%は嘘つきである。
ほぼほぼ全滅してしまうではないか。
にもかかわらず、地元で知られた存在ではないのだ。
訳が分からない。
原作小説は読んでいないのでよく解らないが、恐らく、田舎から出てきて10年以上経っていると思われるブッキーが狙われるのは、ブッキーがイクメンブログで嘘をついているから、ということだろう。だったらなぜブッキーの奥さんや娘まで連れて行こうとするのか。
誰でもいいんなら近場で三重の田舎で選べばいいではないか。
もしかすると原作小説ではその辺詳らかになっているのかも知れない。
しかし、中島哲也監督はそーゆーことには興味がないのだ。
もう、ストーリーの整合性とか因果関係とかどーでもいい。
インパクトのある映像が撮れればいいの。
松たか子の傷メイクとか。
街中のショボい公園に突然神座の建設とか。
そこで巫女舞とか。
これも中島哲也監督の個性なのか、総じて女性陣の演技が素晴らしい。連れてきちゃった奴の嫁(黒木華)と連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女(小松菜奈)の演技も素晴らしいが、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉ちゃんの仲間、柴田理恵が素晴らしい。
柴田理恵の一切笑いのない(泣きもない)ガチでマジな演技というのは初めて観たが、柴田理恵さん自身の造形の素晴らしさも相俟って、劇中最も強烈な印象を残す。
この柴田理恵さんだけが、原作のリアリティと映像のリアリティをなんとか繋ぎ止めようとしているようである。まあ、失敗してるんだけど。
松たか子は最もリアリティの無い役なのでワリを食ってるが、もともとこの役には似合わないよね。ガラに合わなさをリアリティの無いメイクで埋め合わせようとしてるのかなぁ、、、
これに対して男性陣がその場その場のリアリティでいっぱいいっぱいになってしまっている印象。
ブッキーは途中から同じ時間を別の角度から描くことで、全く別の相貌を見せるという役なのだが、これが、前半誰の視線で描いていて後半誰の視線で描くことで別の面が見えてきているのかが分からず、なんか不利な役回りだなぁと思う。
こういうのってフツー誰の視点から見るとこうだけど、別の人物の視点から見るとこうだよって言うのが分かるように描かないと、観客には伝わりにくいんじゃなかろうか。
なぜ裏の顔が周囲の人間にバレないのかが分からないのだ。
う~ん、もしかすると、松たか子の役を柴田理恵が演じていれば、二つのリアリティを接合できたのかなぁ、、、



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