
まず、よくこんなハナシをVFX満載の大予算SF映画にしたな、と思うのである。
それともイマドキCGのおかげでこの程度はたいした予算をかけずに出来るのであろうか。
原作は有名な短編SF小説だが、コレは非常に形而上学的なハナシであり、小説自体の構成もはなはだメタフィクショナル、というか文章自体がSFのアイデアを表現しているような厄介なハナシなのだ。
そんなものを映像化してどうするのか、と思う。
全体的に落ち着いた、ある意味暗い、と言ってもいいペースの映画であり、決して原作をバカにする、というか原作のいいところだけパクっちゃえばいいや、というナメた映画化ではないことは十分伝わる。
さらに言えば、ヘプタポッド(宇宙人をこの映画ではこう呼ぶのね)の「文字」を映像化してそれらしく見えているのは、素晴らしいことだと思う。
決して「原作乗っかり企画」ではなく(そもそも原作自体SFファン以外にはほとんど知られていないだろう)、プロデューサーだか監督だか脚本家の誰かが、
「コレは映画にしてもイケる!」
という、勝算というか確信があって、映画化しているのだな、という意気込みは伝わる。
多分、この映画の評価は、前半から頻出している主人公と娘との関わりを描くシーンを、大胆と感じるか、訳がわからないと感じるかで、この映画の評価は分かれるのだろう。
ところで、ですね。
ワタクシ禁煙さんはこの映画を見て、原作小説の長さと映画化、という問題にもう一度考えさせられましたね。
通常、(映画サイドから見た場合)長編小説よりも短編小説のほうが、映画化に適している、と思われている。
長編小説を映画化すると、どうしてもダイジェスト的にならざるを得なく、それよりは短編を脚本家なり監督なりが膨らませたほうが傑作映画になる可能性が高い、というのだ。
しかしこの論理は、もう何十年も短編小説を読むヒトが減り続けており、原作小説のネームバリューを当て込んで映画化しようとすると、どうしても長編小説に頼らざるを得ない、という現象により、ほぼ、無効になっているようでもある。
しかし本作の原作は短編であり、その意味では「映画化の原作は短編小説有利」の法則に則っているようにも思える。
しかし本作は、図らずも「短編有利の法則」が、意外にもSFにはあてはまらない場合があることを露呈してしまっているようでもある。
SFの必要条件の一つに、「ストーリーの始まりと終わりでは世界の(人類の)あり様が変わっている」というものがある。
長編SFでは世界のあり様が徐々に変っていく様か、変わった後の有り様か、その両方が描かれている。
コレに対して、世界のあり様が変わる瞬間を描いているのが短編SFであると、大雑把に言えば、言える。
本作の原作はまさに「世界のあり様が変わる瞬間」を描いていて、その後に来る大混乱は示唆するにとどめられている。
しかし。
翻って長編映画で「瞬間を描く」だけ、と言うのは難しい。「世界のあり様」が変わった後の大混乱をも描いた映画と同じ金を払った観客は、物足りなさを感じるかもしれない。
本作はそこから逃れるために、若干、その後の世界を描いているが、そのせいで逆に「世界のあり様」の変化が、中途半端になってしまっている。
世界はもっと大混乱に陥るはずなのだ。
それは、「あなたの人生」が変わるだけ「の物語」ではすまないだろう。



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