「さがす」 佐藤二朗の天才と理想

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佐藤二朗は天才である。
 それは間違いない。

 佐藤二朗が天才であることなど、「勇者ヨシヒコ」と「ざっくりTV」を観ればあまりにも明らかである。。
 「勇者ヨシヒコ」を見よ。
 今の日本にあんなきれいな「五度見」が出来る俳優がいるだろうか、イヤいない。
っていうか世界でもいないか。
 つか外人って二度見するのかな、、、

 そんなことはどうでもいい。
 「ざっくりTV」を見よ。
 「え~世にはこびる、あ、ハコビルって言っちゃった、ハコビルってなんだよ、世に蔓延る~」
 今の日本にこんなことを一体全体台本にそう書いてあったのか、アドリブで言ってみたのか、ほんとに間違えたのか全然分からないトーンで言える俳優がいるだろうか、イヤいない。
 世界には、、、コレはいるかも。

 しかしながら、今の日本の芸能界は佐藤二朗の天才を活かしきれているだろうか、イヤいない。
 佐藤二朗の天才ぶりを見たくて99人がどうたらだの、歴史がなんたらだの見てみたのだが、佐藤二朗の天才を活かしているとは到底言い難い。
 何故こんなことをやらせるために佐藤二朗をキャスティングしているのか、さっぱり分からない。佐藤二朗の無駄遣いとはこのことだ。
 今の日本に佐藤二朗の天才を理解して、その才能を十全に活かせるプロデューサーはいないのだろうか。

 そんなわけで佐藤二朗主演映画を観てみた。

 映画はタイトルの通り、「連続殺人鬼を捕まえて懸賞金を稼いでくる」と言い残して失踪したダメおやじを「さがす」女子中学生の物語として始まる。
 そしてダメおやじを抱えて必死に生きている女子中学生の物語として、驚くほどちゃんと出来ている。
 彼女は、周囲の大人の安易な善意を拒否する一方で、自分に好意を持っている同級生男子を捜索に協力させるために「オンナの武器」を使ったりする。
 この、通り一遍な「健気な少女」ではない、複雑な少女像を表現出来ているのが、演出の力なのか演じた伊東蒼ちゃんの演技力なのか分からないくらいよく出来ている。
 ワタクシ禁煙者さんには既によく分からなくなってしまっているが、もしかするともともと少女とはこういうものだったかも知れない、と思わせるほどよく出来ている。

 当然、映画はこの少女を軸に展開するのだろう、と思っていると、なんと、少女は意外なほど早く、父親を発見寸前まで追い詰める。
 そしてここから映画は意外なことに佐藤二朗のピカレスクロマンになっていくのである。

 さらに、最初は「ああ、少女の探索行と父親のピカレスク・ロマンを交互に描くのね、、、」と思っていたが、そうもならない。
 延々と、佐藤二朗のピカレスクロマンが続くのである。

 この辺で、「ああ、この映画は通常の娯楽映画の文法に則っては作られていないんだな、、、」とわかってくる。

 実はこの映画、尊厳死、あるいは希死念慮という非常に重いテーマを扱った、真面目な映画なのである。

 佐藤二朗の奥さんは、1年ほど前にALSで歩行もできなくなった挙げ句、夫婦で経営していた卓球場で縊死していたのだ。

 そして、佐藤二朗が捕まえる、と言っていた連続殺人鬼は、希死念慮を持つ女性をおびき寄せては「彼女たちの願いを叶えて」いるオトコなのである。

 佐藤二朗と殺人鬼は、互いに「希死念慮」という概念の周囲を回りながら、その問題をあぶり出していく。
 二人は、希死念慮という概念を佇立させるためのキャラクターなのだ。
 社会派なのである。

 重いテーマを観客に投げかけることが目的の映画があってもいい。
 面白ければ。
 面白くなければ誰も観なくて投げかけるもクソも無い。
 かくして映画作家たちは自分の言いたいことと商業性の間で煩悶する。
 そしてだいたい失敗する。
 特に現代日本では。
 メッセージ性と商業性を両立させるにはある程度の規模の歴史というか、積み重ねが必要なのだろう。
 会社単位で、とか。
 ある程度の数の優秀なスタッフと理解のある役者がいて、初めてメッセージ性と商業性は両立するのだろう。

 そして、本作の場合は娘のリアルで複雑な存在感が、この殺伐として陰鬱になりがちな社会派ドラマを、かろうじて商業映画に引き止めている。

 いや、もうひとつあるか。
 佐藤二朗のピカレスクロマンとしての出来である。

 追い詰められた佐藤二朗は警察と殺人鬼の裏をかいての一発逆転に賭ける。
 この佐藤二朗の針の穴を通すような作戦と、最後の最後まで作戦の全貌が分からない演出は巧いと思った。

 しかしコレは危険な手でもある。

 多分、この映画を「さがす」というタイトル(と宣伝)から健気な少女が失踪した父親を探すハナシだと思って観始めたヒトの中には、途中から娘が出なくなる展開に「騙された」と思うヤツもいるだろう(事実、多分ダマそうとしているのだが)。

 そもそも、こんな辛気臭いと知っていたら観なかった、などというヤツすらいるかも知れない。

 つまりは、そこに生まれる間隙を埋めるのが佐藤二朗なのだろう。
 佐藤二朗本人はおそらくキャリアの最初からシリアスな演技を志向していたのだが、ある程度注目を得るために極端なコメディセンスを発揮してみたりもした。
 佐藤二朗とは、シリアスと極端なコメディの間で揺蕩っている存在である。

 健気な少女に捜索される駄目オヤジと、妻の希死念慮に悩んだ末、連続殺人鬼と警察の裏を掻こうとしてる小悪党という複雑な人間性をシームレスにリアリティを持たせられる役者は今、佐藤二朗しかいないだろう、という判断はとりあえず成功しているようにみえる。

 それが、佐藤二朗の天才を存分に引き出していたかどうかは分からない。
 しかし、佐藤二朗の天才を利用する一つの方法ではあっただろう。
 ラストのカットの悲しそうな、全てを受け入れたような、そしておそらくは娘の成長を心のどこかで喜んでいるような表情は、とても印象的でした。

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