「チャッピー」 笑いあり涙ありアクションありの身体性論

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 「エリジウム」がダサかったのでなんとなくニール・ブロムカンプ監督に興味を失っていて、本作もすっかりスルーしていたが、観たら観たでコレは面白かったです。

 ひょっとしたら傑作かもしれない。

 「エリジウム」と比べると予算規模はやや縮小している気もするが、「エリジウム」のマット・デイモンやジョディ・フォスターにつづいて、ヒュー・ジャックマンとシガニー・ウィーバーと大スターが二人も出ているので、安っぽさはない。

 ストーリーはいわば逆「ロボコップ」。
 というか明らかに「ロボコップ」の影響下にある。
 メインアクトのロボットの敵役で大型のヒト型じゃないロボット(というか二足歩行の戦車みたいな)と警察への採用競争がある辺りは完全に流用しちゃってる。

 しかしテーマの扱い方はある意味対照的。

 「人間に近いもの」を描くことによって人間を掘り下げる、というのは古典的なSFの手法だが、「ロボコップ」が、堂々と「ロボ」と名乗りながら実はサイボーグであり、もともと人間だったのに身体性を失った主人公がどこまで人間であり得るか、という掘り下げ方なのに対し、「チャッピー」はもともと身体性を持たない機械が人間になり得るのか、という掘り下げ方である。
 この精神と身体の独立性と依存性に関する議論は、映画のラストまで徹底的に追求される。
 コメディだったりハートウォーミングだったりハードなアクションがあったりしながら、なかなかどうして堂々たる思弁的なSFなのだ。

 いま、「AI」」と言う言葉は世の中では結構誤解されている。
 巷ではえーあいの美空ひばりだの、えーあいの手塚治虫だのとかまびすしいが、あんなものはAIではありません。
 あの辺はだいたい素材を取捨選択してアルゴリズムを構築してプログラミングしたりなんかしたヒトたちの作品であって、AIの作品では全然ありません。
 実は、「AIを利用して」とか、「AIの力を借りて」とか言うレベルですらない。せいぜい、「AIの開発途中の成果を使って」程度ではないか。
 ちょっと古くさい言い方をすれば、
 「チューリングテストに合格した奴だけがAIやっちゅうねん!!」
ということだ。

 そして、本作に登場するチャッピーこそがAIなのである。

 舞台は「第9地区」と同じ、ニール・ブロムカンプ監督の地元ヨハネスブルグ。
 南アフリカ政府に警察用ロボットを納入している大手兵器メーカーの設計者ディオン(「スラムドッグ・ミリオネア」のデーブ・パテール)は密かにAIの研究をしていて、警察用ロボットにAIを組み込むことを経営者(シガニー・ウィーバー)に提案するが、女社長は「AIは危険よ!」と

 諦めきれないディオンは廃棄処分になったロボット警官をこっそり持ち帰り、自ら開発したAIを組み込もうするが、輸送途中にギャングに誘拐され、行きがかり上、ギャングのアジトでAIを組み込むことになり、さらには、そのロボットをギャングのもとに残していかざるを得なくなる。
 そして、三人組のクソろくでもないギャング達のもとで、AIを備えたロボット警官、チャッピーは目覚めるのであった、、、

 つまり、赤子のように目覚めたばかりのAI、チャッピーはクソろくでもないギャングのもとで世の中のよしなしごとを学んでいくのである。
 この辺のロボットがアホの不良化していく過程が笑える。

 そしてさらにはギャングの夫婦をパパ、ママと認識し、「ママ」の方でもギャングとはいえ母性が溢れ出してしまい、とってもハートウォーミング。
 この辺から「母性とはなにか」から身体と精神の独立性というものを掘り下げている。
 ヒトは、機械にも母性を発揮できるのか。
 身体性と母性は関係ないのか。

 このあと、アクションシーンがあって、究極の身体性論へなだれ込んでいきます。
 そうなのか?
 それで正しいのか?
 そういうことなのか?
 将来世界はこういう事になっていくのか?

 それは分からない。
 わからなけど、思弁することには意味がある。
 面白いしね。

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