「罪人たち」 罪人とは搾取する側の人間のことである。

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 映画冒頭に置かれるモノローグ。

「生まれながらに真の音楽を奏でる人々がいるという。その音楽は生と死のベールを突き破り、過去、そして未来から霊を呼ぶ。古代アイルランドでは彼らは”フィリ”、チョクトー族では”炎の番人”、そして西アフリカでは”グリオ”と呼ばれている。彼らの才能は土地の人々に癒しを与えるが、邪悪な存在をも引き寄せる。」

 またもっともらしいことを言い出しやがったな、と思わせるが、映画はだいたいこの通りに進む。

 1930年代のミシシッピの田舎町。「シカゴでギャングとして成功し、大金を得た」と噂の双子の兄弟が町に戻ってくる。双子が帰ってきた理由は、ギャング家業で得た大金を注ぎ込んで「ブルースの生演奏で踊るダンスホール」を故郷に建設すること。双子は二手に分かれ、兄のスモークは酒などの物資を調達に、弟のスタックはどうも天才ブルースギタリストらしいという噂のイトコのサミーや、双子がシカゴに出る前から有名なブルースハープの老名手デルタ・スリムなど、出演者や従業員をリクルートしながら開店に向けて進む。
 やがて開店初日の夜、店は大盛況を見せるが、そこには冒頭のモノローグに出てくる「邪悪な存在」が忍び寄っていた、、、と言うハナシ。

 このハナシは前にも書いた気がするが、通常我々は一本の映画を見る際、事前にその映画がナニに関する映画であるかは知っている。
 「オレ、映画を見る前にその映画の予備知識は入れないようにしてるんだよ。新鮮な気持ちで映画と向き合いたいじゃん?」などとのたまうヤカラでもどんなジャンルかは知っている。
 そうじゃないと、まかり間違って恋愛映画だの「ひゅうまんどらま」だのを観てしまう危険があるからだ。
 逆に心臓の弱い(あるいは妊娠中の)のココロ優しい女子がヒト夏のラブアフェアを描いた映画だと思って「ミッドサマー」を観てしまい、あげくに入院などという仕儀に至りかねない。

 ワタクシ禁煙さんも当然本作「罪人たち」が最終的にホラー映画であることは知っていた。
 しかしこの映画、観ているとだんだん、最終的にホラーになることはどうでもよくなってくるのだ。
 オープニング直後にクライマックス直前のカットバックを入れて、映画全体に不穏なムードの楔を打ち込んではいるが、フツーに「ブルースのダンスホールを作ろうとする黒人たち」の映画として成立しているである。
 ブラックスプロイテーション映画のようなややドギツい色調で、わりとゆったりとダンスホール開店に向けて、ときに突然の激しい暴力を挟みながら進むブラザー&シスター。
 何より彼らは希望に満ちている。
 ダンスホール開店という夢に、いや、開店することはもう分かっている、ダンスホールの大盛況という夢に向かって、若いイトコやら昔の仲間(含む昔の奥さんとか彼女)を集める過程ってオモシロいに決まってるよね。

 とりわけ、双子の弟スタックとイトコのサミー、伝説のブルースハープ奏者がオープンカーに乗っていて、スタックが
「ギター持ってきたんなら今弾いてみろよ」
と言うと、サミーはギターばかりかなんと歌もメチャクチャ上手かった、伝説のブルースハープ奏者のジーさんも思わずノリノリで、と言うシーンは、音楽映画として血湧き胸踊る。
 メチャクチャ上手かった、と言う演出ではなく、実際の歌と演奏が素晴らしいのだ。
 ソレもそのはず、サミー役のマイルズ・ケイトンは売出し中のブルース歌手なのだ。
 そして、このシーンが良ければ良いほど、冒頭のモノローグを思い出したヒトはちょっとヒヤッとする趣向だろう。

 そしてワタクシ禁煙さんは、このあたりで、もともとこの映画がホラー映画であることを重々承知しているにも関わらず、
「ああ、このままブルース映画として終わってくれればいいのに、、、」
などと思ってしまった。
 それほど「夢を掴もうとあがく黒人たちのハナシ」として成立しているのだ。

 そしてそして、ついにダンスホールのオープン初日の夜がやってくる、、、
 満を持したサミーの演奏は冒頭のモノローグの通り、「生と死のベールを突き破り、過去、そして未来から霊を呼び出し」てしまうのである。
 このシーンの夢幻的な美しさは、「21世紀のザッツ・エンターテイメント」があれば、必ずや収録されるであろう(と思う)。
  未来から、過去から霊(と訳されているが原語は「Spirits」、要は「精神」と「真髄」が合わさったような概念ではないか)が現れてくると、それに合わせて音も変わる。1932年のミシシッピの田舎町を、ヘビメタ風のギターが空間をつんざいたり、民族風の打楽器のリズムが大地を揺らしたりする。
 やっぱりこの映画は音楽映画なのだ。
 ヘタをするとデヴィッド・ニーヴン版の「カジノ・ロワイヤル」のラストのようなスラップスティックギャグになりかねないところをサミー(つまりはマイルズ・ケイトン)の歌声でまとめてしまう。
 もう、恐れ入りましたというしか無い。

 まあ、このあと一応ヴァンパイヤとの決戦があるわけですが。
 事前にチラッと災厄が近づいているぞ、と示すシーンを差し込んでいるのが上手いが、決戦の迫力自体は、想定の範囲内だったかなぁ、と。
 双子の兄、スモークの元嫁が何故か昔ブードゥーヒーラーだったと主張していて、ヴァンパイヤの習性に詳しく、彼女の知識を利用して対抗していくあたりが新味があってオモシロいが、ブードゥー教はゾンビの元ネタであってヴァンパイヤは関係ないんじゃ、、、などとも思うがまあ、いいや。
 もうひとつ新味は、実は、ヴァンパイヤとの決戦のあと(つまり「ティル・ドーン」の後)、もうひとつ惨劇が待っていることだろうか。
 実はコチラのほうが、ライアン・クーグラー監督の思想を強く表現している。

 で、ですね。ヴァンパイヤとの決戦のシーンが今ひとつスリルにかけるのは、途中、「遊星からの物体X」のアイデアを露骨に取り込んでたりして、ちょっと笑っちゃったりするからかなぁ、、、と思う。
 
 実はこの映画、全編にわたって過去の名作映画からの引用があからさまだったりもする。

 全体のフォーマットがタランティーノ一味、ロバート・ロドリゲスの「フロム・ダスク・ティル・ドーン」であることはすぐ分かるだろう。
 前半の、昔の仲間をリクルートしていく件は「ブルース・ブラザーズ」そっくり。嫁の許可を得ないとナニも出来ない奴が慌てて仲間に加わる件(くだり)の呼吸など、ソックリ。
 そして最初のヴァンパイヤがネイティブアメリカンのチョクトー族に追われて白人の家に逃げ込む件(くだり)、また、最後の決戦の最中、仲間内で疑心暗鬼になってヴァンパイヤかどうかのテストを始める件(くだり)がまるで「遊星からの物体X」である。

 ライアン・クーグラー監督はこれらの「引用」を隠すつもりがない。堂々と「パクってますよ」と宣言しているかのようである。
 ヴァンパイヤとの決戦のあとに控えるもうひとつの惨劇が示すように、「罪人たち」は「白人に搾取された黒人の文化であるブルース」をめぐる映画である。
 そしてライアン・クーグラー監督は「オマエら白人が黒人の音楽を搾取したように、オレはオマエら白人の映画を搾取してやるぜ!」と宣言しているのである。
 まあ、白人もブルースが「素敵だ」と思ったから搾取したのと同じように、クーグラー監督もこれらの映画が「素敵だ」と思ったから搾取したんだろうが。
 
 ワタクシ禁煙さんの考察はこのあと「なぜ60年代以降ブルースをブルースとして継承しているの白人ばかりなのか」へと向かうのですが、今回は割愛させていただきます。

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