
はぁ~~~、才能のある映画監督との出会いとはこういうものか、と思った次第でございます。
通常我々は一本の映画を観るとき、全く予備知識無しで観るということはほぼないだろう。少なくともジャンルくらいは判っているのではないか。
そうじゃないと「レンアイ映画」だの「ひゅーまんどらま」だのを観てしまう危険があるではないか(ハナシ変わるけどヒューマン・ドラマってナニ?。ドッグ・ドラマとかエレファント・ドラマとかけっこう有って、それらと区別するためなら判るけどそうじゃないでしょ。映画とかドラマの登場人物ってほぼほぼヒューマンじゃねーの?いま登場「人」物って言っちゃったけど)。
本作についてもワタクシ空中さんは「ホラーである」ということは判っていた。
さらに言えばスウェーデンの田舎が舞台である事もわかっていた。
「ああ、アメリカ人がヨーロッパの田舎でわけのわからない宗教儀式に巻き込まれてシどい目に会うハナシね、、、」
ってなもんである。
なんとなく、「ホステル」がアタマに浮かぶ。
アメリカ人の田舎恐怖という観点からみると、「脱出(ジョン・ブアマンの奴ね)」とか「ウィッカーマン」とか頭に浮かんでさえいる。ピーター・フォンダの「悪魔の追跡」とかね(知らんわーーーーーーーーーーッつ!!)。
しかし、この映画の冒頭は、それらの予備知識から予想されるオープニングを全く裏切る。
映画開巻のド頭のカットがのタペストリーはまあ、いい だろう。それっぽい。多分、タペストリの内容が映画の展開を象徴しているのだろう。
しかし、次のカットはなにやら寒々とした森の風景。雪にまみれ緑色が全く感じられない針葉樹の、まるで静止画のようなカット。
コレが3枚続いたあと、突然アメリカの住宅街の夜景に電話の呼出音が鳴り響く。
一体全体コイツはナニを延々と書いているのか、とお思いでしょうが、なんか、全然ホラー映画のオープニングっぽくないのね。じゃあどんなんがホラー映画のオープニングっぽいんだよって困るけど。
しかしこの映画はオープニングから「スウェーデンのミッドサマーが舞台のホラー」と言う前情報から、何となく我々がイメージするオープニングと著しくかけ離れている。
監督の、「そこらヘンに転がってる凡百のホラー映画とはちょっと違いますよ」という決意のようなものがビンビンと伝わってくる。
で、夜の住宅地に鳴り響いた電話ですよ。
夜景からやがて一軒の家の鳴り響く受話器のアップになり、その家の中を映し出す。
寝室で寝ている老夫婦。
呼び出し音以外全く動きのない家の中。
コレはコレでそれなりにホラーっぽいオープニングではあるのだが、我々の脳裏にはある違和感が浮かんでいる。我々はこの映画が夏のスウェーデンを舞台にしている、という予備知識を得ているからだ。
こっからどうやって舞台を夏のスウェーデンに移すんだろう、、、
電話をかけていたのは心理学を学ぶ女子大生、ダニであった。
ダニの妹は双極性障害を患っており、ダニに不穏なメールを送ったあと携帯に連絡がつかなくなっていたのだ。
妹の携帯も実家の固定電話も連絡がつかなくなったダニは不安になり恋人のクリスチャンに電話をする。
この、クリスチャンとの電話で、二人の関係性、さらにはクリスチャンの友人たちとの関係性まで判ってしまう。
ダニは自らもパニック障害の傾向があり、精神的に完全にクリスチャンに依存していて、クリスチャンはそれを友人たちからバカにされている。
「そんなメンドいオンナとっとと別れちまえよ!」
というわけだ。
クリスチャンとその一味の四人組は文化人類学の院生で、論文のテーマを探している。
仲間の一人がスウェーデン(出た!)の地図に載ってないような奥地に、キリスト教以前から続くコミューンがあることを突き止め、そこでのフィールドワークを論文にするため、クリスチャンたち仲間に協力のため同行してもらう計画を立てていた。
そして、クリスチャンと何日も離れて暮らせないダニも同行する、と言い出すのだった、、、というハナシ。
ここまで、主人公ダニのキャラクターと置かれた状況、恋人やその仲間との関係性をたっぷりと描いている。
スウェーデンに出発するまで(出発してもある程度の時間)、ホラー要素一切なし。
凡百のホラー映画とは違いますよ、と宣言している。
まだ監督二作目の新人としてコレをやりきる実力と度胸には恐れ入る。やはり才能とはセンスだけじゃない、度胸も必要なのだ。
そして彼らは問題のコミュニティにやってきた。
彼らの他にも単純に観光目的のようなカップルもいたりして、村人は外部からの訪問者を熱烈歓迎。
しかし、訪問者たちは、本番の「ミッドサマー」、夏至祭の前に、前哨戦のような行事を見せられ、激甚なショックを受ける。
キリスト教的な、あるいは近代的な価値観と無関係な世界で育まれ、継続されてきた宗教儀式であり、人間の命というものに対する考え方が、まるで違うのだ。条件さえ揃えば、当たり前のように、淡々と自分の命を捨てる。それは自爆テロのようなものとも違う、「ナニかのため」必要だから、と熱い思いで、いうことではなく、ただ、淡々と、そういうものだから、と死を受け入れていく。
おそらくは観光目的だったカップルはこの出来事にショックを受けて村から出ていこうとするが、クリスチャン達一行、つまり文化人類学の徒はこの出来事に大興奮、クリスチャンは本来有事の研究に協力するだけのつもりだったが、自分もこの村をテーマに論文を書く、と言い出す始末。
つまり、ここでもダニは帰りたい気持ちとクリスチャンと一緒に居たいという気持ちに引き裂かれている。
ホラーと言えば普通夜のシーンが多そうだが、本作はこのあと夜のシーンがない。なにしろ白夜だから。寝るときは窓を板で塞いで暗くするが、隙間から光が漏れている。
夜のシーンが無いホラー映画というのも前代未聞ではあるまいか。
あくまでも明るい陽光の下、住民たちも明るく、やさしい中、徐々にダニたちは住民のペースに巻き込まれていく。
本作はホラーではあるが、オカルトではない。サイコホラーでもない。
住民たちは、あるいはダニたちを襲う者たちは、この世ならざる存在でも、殺しに酔う狂人でもない。ましてや犯罪者集団でもない(少なくとも自覚的には)。
彼らはある意味善良で正常な人間である。
ただ、現代では通用しない価値観に従っているだけだ。
彼らの宗教がドルイド教だとすれば、かれこれ4000年近くアタリマエのこととして続けてきた行動様式を守っているだけなのだ。
実はこの陽光の中繰り広げられるホラーが、凡百のホラーより怖いのはココだろう。 全く悪気のない善良なヒトビトによって徐々に追い詰められていく。
一体このシト達はナニを考えているのだろう、、、
とっても明るくて優しいシトたちなのに、、、
そしてラストのたったワンカットで、前半さんざん振って来た伏線を回収することによって、ホラーですらなくしてしまう。
ああ、コレがやりたかったのか、、、
結局、ホラーというフォーマットを利用して、オトメ心を描いているのだ。
監督二作目にしてなかなかのやりたい放題ぶりではないか。
あえて文句を言うと後半に「サラッと出したつもり」のドルイド教周辺のアレコレが、「サラッと出したつもり」なだけに、ウザい。
「あ、コレ、キミたちが観ても意味分かんないだろうけど、ちゃんと裏付けあるから。
興味あったら調べてみれば?」
という感じ。
うるへー!(←調べた奴)


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