「ラストナイト・イン・ソーホー」 スター誕生✕2

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  ロンドンの一流デザイン学校に合格したエリー(トーマシン・マッケンジー)は大喜びで浮かれるが、彼女と暮らす祖母には心配ごとがあった。
 実はエリーの母もロンドンのデザイン学校に通っていたが、都会のストレスに負けて自殺していたのだ。しかもエリーにはどうも亡くなった母親が見えているらしい、、、
エリーは学校の寮に入ったものの、田舎者をバカにされることうんざりして、パブのバイトをして一人で下宿を借りることを決意する。
 しかし、ソーホーに借りた下宿で初めて眠りについた夜から、彼女は夜な夜な1966年のロンドンで歌手を夢見て足掻くサンディとなって、スウィンギング・ロンドンを闊歩するのであった、、、
というハナシ。

「 ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ホット・ファズ-俺たちスーパーポリスメン!!」のエドガー・ライトらしい、とっても気が利いていて、とっても楽しく面白いが、決してA級感は漂わない映画。

 前半は豊富なアイデアと意外な展開、そして二人の女優の女優の魅力で
 「ハッ、、、オレは今、傑作を観ているのではないか、、」
と思わせるが、ラストでアレよアレよとB級ホラーになってしまう。
 思い起こせば「ホットファズ-俺たちスーパーポリスメン!」もとっても気が利いていて面白かったけど、ミステリーとしてはどーでもよかったなぁ、、、

 コレはもう、エドガー・ライトの宿痾なのだろう。
 神は細部に宿る。
 映画全体の印象がグダっても、もう、やりたいことは出来たからいいや、ってことだと思う。

 というわけで、この映画の前半はとっても楽しいですぅ、、、

 まず、何と言っても二人の若い女優さんの魅力(なんか小学校の卒業文集みたいだな、、、)。

 デザイン学校の新入生エリー役に「ジョジョ ラビット」のトーマシン・マッケンジー。
 ユダヤ人少女の時から可愛くはあったが、あまり美しい印象ではなかった。本作でも冒頭の田舎ムスメ時代は可愛いだけだが、都会に染まって垢抜けてからの美しさは尋常じゃない。美人だったんだねぇ、、、

 そしてスウィンギング・ロンドンで歌手を夢見て足掻く少女に「スプリット」「ミスター・ガラス」の、というよりドラマ「クイーンズ・ギャンビット」の、過去が似合う女アニャ・テイラー=ジョイ。
 アニャ演ずるサンディがソーホーのパブで踊るゴーゴーの可愛いこと。スイムとかね。

ちょっと若いヒトは何言ってんのかわかんないだろうけどね。

  もう、可愛いの。自由で、躍動的で。
 コレがスウィンギング・ロンドンということだろう。
 アニャ・テイラー=ジョイのあの、離れていて大きい、強い目が醸し出す自信に満ちた表情。
 いつもオトコに無言で「どう?アタシの魅力に気付ける?」と問いかけている。
 スターとはこういうことだろう。
 スターの条件とは、ド厚かましいことである。
 ド厚かましいとは、自分のプランに疑問を持っていないことである。
 いま、アニャ・テイラー=ジョイも、この映画のサンディも自分のプランに疑問を持っていないことが、魅力になっている。
 サンディは歌を歌わせても踊りを踊らせても自信満々なのだ。正直この映画の中では歌はあんまり上手いとは思えないが、何しろ自信満々で歌っているので、とりあえず惹きつけられる。こういうヒトをシーンスティーラーと呼ぶのだろう。
 サンディは結局失敗するが、アニャ・テイラー=ジョイはまだまだスター街道を駆け上っていくだろう。あの、強い目であたりを睥睨しながら。
 ああ、オレはいま、スター誕生を目撃してるんだな、という感じ。
 「クイーンズ・ギャンビット」からファンなんだけど。

 ところで、パブでサンディが女たらしとゴーゴーを踊っているシーンで、サンディとエリーがノーカットで入れ替わる夢のような演出が話題になっているが、ワタクシ禁煙さんは、つねづねこういう演出方法はいかがなものかな、と思っている次第です。

 もう、観ててさ、
「あ~、ハイハイ、カメラワークとヒトの動きを計算してうまく隠れては入れ替わってるのね、、、」
と思っちゃう。
 映画の中の世界から、一気に撮影現場の風景に引き戻されてしまうのだ。

 コレは最近流行りの「長回し」とも合わせて難しい問題ではある。
 撮り方で変化をつけるのか(迫力が出ると思っている)、観客がカメラの存在を意識しないカメラワークに徹するべきなのか。
 一番いいのは斬新でトリッキーであるにも関わらず、観客がカメラを意識しない手法を編みだすことなのだが、このシーンはもう、カメラどころかエドガー・ライトのドヤ顔まで浮かんでくるわ。
 カット割ってサンディとエリーの顔を切り替えたほうが夢のような美しいシーンになったと思うのよ。
 
 そして、単に二人の女優のスター誕生の瞬間をフィルムに定着させるだけではなく、なんとなく、時代に目配せしたアクチュアルなテーマも扱ってたりする。。
 二つの時代生きた女性それぞれの、「女性としての生きづらさ」を描いたりもしている。

 サンディーは歌手を夢見て、ロンドンに出てきたが、結局、性を切り売りして生きて行くしか無くなって行く。そして、それが自分の歌手としての実力不足からなのか、逆に性の対象として扱うために歌手としての実力をスポイルされているからなのか、分からない。
 この過程のヒリヒリした恐怖と失望は現代の女性にも響くだろう。

 そして、現代。
 名門デザイン学校の生徒になったエリーは流石に性を切り売りせざるを得なくなるようなことはないが、こっちはこっちで現代の女性ならではの苦悩を味わうのであった、、、
 コレはコレで現代の女性にとってアクチュアルな悩みなんだろうなぁ、、、
 高校卒業して以降、田舎モンだからってハブられることって、男子は無いよね。
 イヤ、デザイン学校とかのオサレであることがアイデンティティになってるような場所特有の現象なのかなぁ、、、

 エドガー・ライトがどーもB級くせーなぁ、、と思うのは、本作で言えば例えばホラーとして成立していないところだろう。
本作は死臭問題から逃げているのだ。殺人事件で犯人が一番困るのは死体の処理だ。
 死体というものは放っておくと酷い臭いを発するので、コレをどう処理するのか、は常に殺人を隠す必要がある善男善女の悩みのタネである。
 しかしこの映画はこの問題を完全にないモノとしてほっかむりしている。

 コレは無理でしょ。
 もう、終盤はコレが気になってどーでも良くなってきた。
 大家のおばさんが漏らすヒトコトで全てをひっくり返せると思ったのだろうが。
 コレは確かに東京でもニューヨークでも成立しない、世界中でロンドンのみで成立する名言ではあるが。
 それでは今回はこの名言とともにお別れしたいと思います。

「ここはロンドンよ。どの部屋でもヒトは死んでるわ」

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