「ゴジラ-1.0」中学生の、中学生による中学生のための怪獣映画。

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 山崎貴作品が苦手だ。

 世評高い「ALLWAYS 三丁目の夕日」の「見えない指輪」のシーンは、なにか悪夢を見ているような気がした。小雪さんが「キレイ、、、」とのたまうに至っては、その狂気に震えたものである。

 「永遠の0」の主人公三浦春馬くんが戦争で亡くなった祖父の調査をしていて、かつての戦友から祖父の悪口ばかり聞かされ、「オレ、もう調査やめようかな、、、」と言い出したものの、たった独り祖父のこと絶賛するヒトを見つけた途端「オレ、もっと続けて見ようかな、、、」とほざいたときは思わず「イヤ、ゲンキンだな!」とツッコんでしまった。

 これらはほんの一例に過ぎず、山崎貴作品は何故かこの手の「全てをセリフで説明しないと気がすまない病」で充満し、「Mr.Baterなみのベタな演出病」で飽和している。

 しかし。
先日ワタクシ禁煙さんは、テレビ信州制作の「映画監督 山崎貴の世界」という番組を拝見し、全ての謎が解けたのである。

 この番組の中で、山崎貴カントクは繰り返し自らの中学時代について語る。
 映画の魅力に取り憑かれた中学時代。
 初めて映画を作った中学時代。
 山崎カントクにとって中学時代こそが映画作りの原点なのだ。

 ココまではフツーだ。
 むしろ創作者の多くの原点は中学時代にあると言っても過言ではないのではないか。
 「SFの黄金時代はは12歳である」という名言もこの事実に即しているのだろう。

 問題はココからだ。
 番組はとうとう山崎カントクが中学生時代に撮った映画のロケ地まで探し出し、山崎カントクの「映画と出会った中学生の時の感動を忘れたくない」という言葉で幕を閉じる。
 そしてこの番組が日テレで放送されたときのサブタイトルは、「~少年は夢を追い続ける~」である。

 番組中に象徴的なシーンが有る。
 旧日本軍の駆逐艦のカットに、その下を通過するゴジラを合成しているシーン。
 ベテランの特撮マン(というよりCG屋さん?)は水中のゴジラを黒い影として描き、
「実際にはコレくらいしか見えないでしょ」
というのだが、山崎カントクは
「イヤ、もっと明るくしてゴジラであることが判るようにしてくれ」
と主張して譲らないのだ。

  この辺でワタクシ禁煙さんは、「嗚呼!」と膝を打ったのである。
 「このシト、中学生やんか、、、」

 山崎貴作品とはつまり中学生が中学生に見せるために作っている映画なのだ。

 そう考えればすべての説明がつく。
 普通の大人の感性では、ベテラン特撮マンの言うほうが正しいのである。
 水面に影響を与えないほど深いところを通過するゴジラの「ゴジ影」がそんなにはっきり見えるわけはない。
 イヤ、そもそも「なんだかわからない黒い影」の方が不気味で怖いではないか。

 しかし山崎貴はそうは考えない。
 中学生だから。
 「ハッキリ見えたほうがいいに決まってるじゃん」
と考え、なぜ彼が「なんだか判らないほうが不気味」と考えるのか、サッパリわからない。

 本作は、怪獣映画につきものの「よくいる困ったチャン」がいない映画でもある。
 怪獣でひと儲け企む悪い商人、保身のためするべきことをしない(あるいはするべきでないことしたがる)無能な政治家。本作には怪獣映画につきもののこれらの人物が登場しない。
 ただ一人、本作に登場する困ったチャンは、実は主人公の敷島(神木クンね)だったりする。
 2年間育ててきた幼児に
「オレはオマエのとおちゃんじゃねえんだ」
と言い放つ困ったチャン。
 ゴジラを倒す画期的な作戦を披瀝する旧知(ココ2年一緒に仕事してた)「学者」(山崎組の吉岡秀隆)に
「それで絶対にゴジラを倒せるのか?絶対じゃなければ協力しない!絶対じゃなきゃダメなんだ!」と言い放ち席を立つ困ったチャン。
 試作機だった秘密兵器「震電」を整備する整備士が必要となると、かつて迷惑をかけた整備士橘(優香のダンナ)じゃなきゃダメなんだ!と言い放ち整備がどんどん遅れるのも意に介さず行方不明の橘(優香のダンナ)を探し続ける困ったチャン。

 コレらの困ったチャン行動も、敷島自身が中学生程度のメンタリティの持ち主である、と仮定しないと理解できない。
 「震電」の件にしても、イヤ乗るのはオマエかも知んねーけどオマエの持ちもんじゃねーから、と思うのだが、、、

 つまり、中学生が中学生のために作っているだけでなく、そもそも登場人物が中学生なのである。
 そらワタクシ禁煙さんみたいなジジイが観ても納得いかんわ。

 一方で、怪獣映画には怪獣映画特有の楽しみというモノがある。
 このハナシは前にも書いた気がするが、怪獣映画とはつまりデカい生き物が出てくる映画であり、デカい生き物が出てきたときに、観客に
「ああ、コレくらいの大きさなのね、、、」
と理解させることは簡単だが、
「うわっ、デカっつ!!!」
と思わせるのは思いの外難しいのである。

 巨大なものを「デカっつ!!」と思わせる手法として、「スターウォーズ 新たなる希望」のオープニング、スター・デストロイヤーの構造物がゴチャゴチャついている腹を延々と見せて「まだ続くのかよ!!」感で「デ、デカぁ、、、」と思わせる、などを思い起こす方もいらっしゃるだろうが、怪獣映画には怪獣映画によくある手法がある。

 たとえば怪獣映画につきものの「民衆が逃げ惑う」シーンだ。
 だいたい街中からカメラに向けて民衆が逃げてくる。街の風景のさらに後ろにはビル街なんか見えてたりする。この時、いわゆる 「ゴジラVSシリーズ」や「ミレニアムシリーズ」(言い換えれば円谷英二の死後)では、最初からビル街に怪獣がいるのである。 
しかし、では、最初はこのシーンに怪獣はいないのである。
 観客は、
「あー、民衆が逃げているなー、、、急げイソげ、、、」
などと呑気に思っているが、そこに突然、後ろのビル街にドーンっ!と怪獣が現れるのである。
 ただのビル街だと思っていたものが突如怪獣のデカさを表現してしまう驚愕。
 「ええ?!もうこんなに近くにいたの?」という絶望感。
 コレが怪獣映画の醍醐味というものではないのか。
 シーンの最初からビル街に怪獣がいたのでは、それは「ビル街に怪獣がいる」ショットであって、「民衆が逃げている」シーンに突如怪獣が現れるショックは生まれない。

 ちなみに昔はこういう演出方法を「空間の演出」と呼んでいた記憶があるのだが、いま「空間の演出」でググるとインテリアとか都市設計のハナシばっかりである。なぜだろうか。

 私見によればこの空間の演出ができているのは、当然のことながら円谷英二と平成ガメラシリーズ(樋口真嗣、ということであろうか)、及び庵野秀明である。
 エヴァンゲリオンの第壱話冒頭で、山あいを戦略自衛隊(国連軍だっけ?)のヘリがホバリングしながら後退する情景に、手前の山と向こうの山の間から使徒がドゴーンと入ってくるカットを思い出していただきたい。

 で。問題は本作だが、、、

 銀座のシーンで逃げ惑う民衆のシーンがあったので、「コ、コレは、アレが来るかな、、、」と期待して観ていたのだが、なんと事前にゴジラに蹴り飛ばされた電車が飛んでくる、演出になっていた。
 コレはコレで山崎カントクとしては「ドヤ、、、電車飛ばしたったで、、、焦ったやろ、、、」と思っているに違いないのだが、電車が飛んできても(怖いことは怖いが)ゴジラのパワーは伝わってもゴジラの巨大さ、魁偉さは伝わらない。むしろゴジラが近くまで来ていることの予告になってしまい、ゴジラ本体が登場したときのショックが薄らいでしまっている。
 ココはゴジラがビルの間に出現してからコチラに向かって電車を蹴り飛ばす、くらいの工夫が欲しかったと思う。

 あと、コレはネタバレになる恐れがあるのであまり詳しく書けないが、脱出装置を巡る展開も「なんだかなぁ、、、」と思ってしまった。
 ココは、橘は脱出装置の存在を敷島に知らせず起爆装置のレバーと連動させておいて、敷島が死を覚悟して起爆装置のレバーを引くといきなりキャノピーが吹っ飛んで「え?!え?!」と驚く敷島の膝から空向けたショット、が正解ではないか。
敷島が主体的に脱出装置レバーを引くのなら、あとからわざわざ回想シーンを入れて説明する必要はない。こういうくどい演出が中学生っぽいっちゅうねん。どうしても説明したなら、敷島に起爆装置の説明をするときに、なんか「必ず帰って来い!!」とかひとクダリいれて存在を知らせておけばいいではないか。

 我々はつねに、ゴジラ映画、というか怪獣映画は大人向けなのか子供向けなのか、という問題に直面している。
 オリジナル・ゴジラから始まった昭和ゴジラシリーズ、平成ゴジラシリーズ(VSシリーズとも呼ばれる)、そしてミレニアムシリーズと、ゴジラシリーズは開始(またはリブート)されるたびに一作目では大人向け、そしてシリーズを重ねるごとに子供向けになっていく、というループを繰り返してきた。
 ゴジラシリーズの歴史とは、オリジナル・ゴジラが完全に大人向けであったことに敬意を払い、リブート時に一応大人向けで始めてはみるが、やはり「怪獣」というコンセプトが東宝重役陣には子供向けに思えてしまうのか、徐々に子供向けに振っては動員数を減らす、という悪循環の歴史であった。
 この、怪獣映画がなぜ大人向けのまま続けられないのか、という問題は、それだけで一冊の本が書けるくらい重要なテーマではあるが、「シン・ゴジラ」以降は作家性を前面に打ち出した作風になっているので、仮に「-1.0」がシリーズ化されるとしても、山崎カントクが手掛ける限り、徐々に子供向けになっていく陥穽からは逃れられるのだろう。
 なぜなら山崎カントクはいつまで経っても中学生に向けて作り続けるだろうから。

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